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2011年6月17日 (金)

「思いやり」は見えるけれど…

東日本大震災のあと、山ほど流れていたACのこのCM(※音が出るので注意)について。「思い」は見えないけれど「思いやり」は誰にでも見える、という詩が読まれるやつです。

ずっと気になっていたのは、「誰にでも見える思いやり」の描写。「思いやり」をわかりやすく短時間で示す表現として、あれはどうなんだろう。

前半部分の、電車の中で妊婦さんに席を譲る行為は当然のことだし、私もよくします。でも、後半部分のように、階段を上っているおばあさんの横を歩いたり、手を取ったりしたことはありません。なぜなら、本当に必要かどうかがわからないから。

私は高校生のときに膝の手術をして、しばらく松葉杖生活でした。階段の上り下りは本当につらかったけど、そのときに強く思ったのは「私はいないものと思ってほしい」ということでした。すたすたと歩いている人々の中で目立ちたくはないし、迷惑をかけたくもない。加えて、みじめだとは思われたくもないし、同情もしてほしくない。

普通の人よりも時間はかかるししんどいけど、なんとか1人で上り下りしないといけないし、そうすべきだと思っていました。いつも他人が助けてくれるわけではないし、人生結局は1人だから。周囲から視線を向けられるたびに「見ないでくれ~」と思ったし、石ころぼうしをかぶりたい気分でした。

なので、CMの例でも、実際のところ、単に隣を歩かれても迷惑なだけではないかとついつい思ってしまいます。おんぶして運んでくれるのならともかく。もちろん、「見知らぬ高校生に、手を取って隣を歩いて欲しい」と思っている高齢者もたくさんいるとは思いますが…。

重たい荷物を代わりに持つとか、乳母車を一緒に運ぶとか、転んだ人を助けるとか、そういう例ではだめだったのかな。せめて「一緒に歩きましょうか?」と訊く描写を入れるとか。せっかくいい詩が読まれるのに、もったいないなと思いました。

あのCMに触発されて、無意味に隣を歩かれて困っているお年寄りがいなければいいのですが…。

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