アヘン・たばこ・原発
かなり昔の話ですが、テレビ番組で上岡龍太郎氏が「芸人は末路哀れを覚悟の上じゃなかったらいかん」という内容の話をしていました。いわく、好きなことして好きなもん食べてちやほやされて過ごして、それで老後も安泰なんて許されるはずがない、とのこと。
もともとは桂米朝氏が落語の世界に入ったときに師匠から言われた言葉らしいですが、上岡氏もそう思っているらしく「最後は餓死でもいい」と話していました。
実際に上岡氏が末路哀れになるのかどうかはともかく、どうしてそんな話を今さら思い出したのかというと、この記事を読んだから。
要するに、たばこは先進国では売りにくくなっているので、発展途上国での販売とシェア獲得を狙う、ということですね。アメリカや日本では今や、たばこの広告を打つことすら難しくなっているし、禁煙への流れは明らかなわけで。潜在的な顧客がいて、販売しやすい市場に進出するのは、営利企業としては当たり前の戦略なのかもしれません。
実際、インドネシアなんかはものすごい喫煙国になっているらしく、少し前には子どもが慣れた手つきで喫煙している映像が大きな話題になりました。もちろん、たばこの普及と親のしつけは別問題なのかもしれませんが…。
福島瑞穂氏はコラムで、たばこと同じ構図が原発の輸出にも見られることを指摘しています。まあ、その通りなんだと思います。日本ではもう原発はいっぱいいっぱいだし、途上国に売るほうが手っ取り早いですよね。菅内閣の下で仙谷・前原両氏は熱心に輸出を進めてきたみたいだし。
私は経済に疎いので、たばこや原発を途上国に売ることが、本当に日本の経済を支えることに繋がるのかどうか、正直よくわかりません。また、売らないことによる日本経済へのダメージ、くらしへの悪影響もよくわからない。
でも、日本の会社が売らなかったらきっと他の国の会社が売りつけるんだろうし、結果として日本の豊かさが相対的に失われるということはあり得るんだろうとは思います。
なので、「たばこや原発を途上国に売るのをやめるべきだ」と言い切ることは難しいのですが、それでもひとことだけ言いたい。少なくとも「今の豊かな暮らしは、たばこや原発を途上国に売りつけることによって成り立っている」という自覚ぐらいは常に持っておくべきだと思います。
売りつけた結果としての経済成長は享受すればいいし、便利な暮らしも大いに楽しめばいい。ただし、上岡龍太郎氏の言葉ではないけど、末路は哀れであってもそれは当たり前ですよ、と。他人の犠牲の上に成り立った豊かさが、いつまでも許されるわけがない。たばこや原発の輸出を黙認している私たちが、畳の上でまともに死んでいいはずがない。
当たり前の話として、そうした覚悟は持っておくべきだと思います。