《書評》A3 森達也著 集英社インターナショナル ★★★★☆
福島第一原発の事故以来、原子力や放射能に関する専門家がたくさんメディアに登場しました。その中には「メルトダウンはあり得ない」と説明していた人や、「放射能は体に良い」と主張していた人もちらほら見られました。彼らに対しては、特に脱原発の立場からは「御用学者だ」として厳しい批判が行われています。
御用学者の定義はさておき、原発の分野において、何らかのバイアスのかかった専門家が存在していることは、おそらく事実なんだろうと思います。
では、原発の御用学者の存在を目の当たりした私たちが、その事実から学ぶべきことは何でしょうか?それは、単に原発村を厳しく批判して溜飲を下げることなんでしょうか?
本書はオウム事件に関する作品なので:原発とは無関係だし、非常に重量級の内容です。オウム事件に詳しくない私ごときがあれこれ言えるような本ではないんですが、今回は「御用学者」という視点から少し書いてみたいと思います。
著者によると、今回の「A」は荒木氏でもオウムでもなく、麻原彰晃の「A」。本書で言及される内容は多岐に渡りますが、主となるテーマは麻原裁判の異常性についての指摘と、オウムが引き起こした一連の犯罪に対する考察でした。
著者の麻原裁判に関する主張は、実はとてもシンプルに思えました。すなわち、「まともで適正な裁判をしてくれ」という1点に尽きるのではないかと。
麻原裁判は被告人の死刑が確定し、既に結審してしまいましたが、そのプロセスは従来の刑事裁判と比べて、極めて異例な形で進みました。その一例として本書で挙げられているのが、被告人である麻原氏の異常な言動です。
麻原氏の言動は裁判の途中からおかしくなってしまい、家族や弁護人とまともなコミュニケーションが取れなくなっていたことが本書で示されています。家族や弁護人とコミュニケーションが取れないんだから、当然犯行に関するまともな証言が得られるわけがないし、裁判の戦略を立てられるわけもない。
で、麻原氏がおかしくなった理由が「精神疾患」によるものなのか、「死刑を逃れるための演技」によるものなのか。そこが、裁判を進めるかどうかを判断する上での大きなポイントになっていました。
勘違いされがちですが、著者の論点は、心神喪失者の行為について定めた刑法39条ではなく、刑事訴訟法314条の1。「被告人が心身喪失の状態に在るときは、検察官及び弁護人の意見を聴き、決定で、その状態の続いている間公判手続を停止しなければならない。」という条文についてです。
つまり、事件を起こしたときの麻原氏の責任能力の話をしているわけではなく、裁判中の麻原氏の訴訟能力についての話をしているわけです、このあたりは、一般的に混同されがちな部分ではないかと思います。
精神疾患なのか演技なのかは素人ではわからないわけで、当然専門家の出番となるはずですが、裁判所による精神鑑定はなぜかなかなか行われない。その間に弁護側は独自に6人の専門家に被告人との面会を依頼しますが、全員が「訴訟能力なし」と鑑定。彼らの多くが、適切な治療を行えば回復する可能性が高い、と判断していたとのこと。
治療によって回復したら、当然弁護側とも検察側ともコミュニケーションが取れるだろうし、事件についての証言も得られるはず。たとえ結果的に死刑になるとしても、判決が確定するまでのプロセスは法律に基づいた適正なものでなければおかしい。著者はそうした点を指摘して、裁判を一時停止して治療を行うことを主張しますが、私もそれはまっとうな意見だと思います。
さて、前置きが長くなりましたが、ここでようやく登場するのが西山詮医師。弁護側が依頼した6名による鑑定のあと、裁判所からの依頼で麻原氏の鑑定を行った西山氏は、麻原氏を詐病とみなすとともに、「訴訟能力あり」と判断します。結果として、麻原氏が治療を受けるという展開はなくなり、本人が大したことを語らないまま裁判は終わってしまいました。
ここで最初の話に戻りますが、原発の御用学者の存在を目の当たりした私たちが、その事実から学ぶべきことは何でしょうか?個人的には、すべてを疑ってみること、そして少し想像してみることだと思います。
言うまでもない話かもしれないけど、御用学者はきっと現在もありとあらゆる分野に存在しているし、過去にも山ほど存在していたんですよ。「専門家の見解」や「科学的な知見」なんてものは、政治やお金やイデオロギーや世論などの力によって簡単に歪められてしまう、ということですね。
西山氏がいわゆる「御用学者」だったかどうかは私には断言できません。ただ、たくさんの人が亡くなったオウム事件の裁判が、もしも御用学者の存在によってインチキな形で終わってしまったとしたら、それはとても不幸なことだし看過できないことだと思います。
原発事故をきっかけに、世の中の仕組みに関心を持ち始めた人はきっと多いはず。個人的には、脱原発だけに留まらずに、もう少し想像力を広く持ってほしいなーとついつい思ってしまいます。原発の御用学者については厳しく糾弾するのに、司法の御用学者については疑問すら持たない、というのではバランスが悪いですよね。
さて、麻原裁判は結局、一般的な刑事裁判と比べて異例尽くしのままで終わってしまいましたが、最後に著者の言葉を引用しておきたいと思います。
誰かに適正な裁判を受けさせる権利を守ることは、僕らが公平な裁判を受けるための担保でもある。
結局のところ、自分が当事者になるケースを想像できるかどうかなんだと思う。私は別に罪を犯す予定はないんですが、自分や家族が加害者なり被害者なり被告になる可能性を常に想像してしまうし、その場合にはまともな裁判であってほしいと思います。ただでさえ冤罪やら国策捜査やら別件逮捕やらが横行してる世の中なんだし。
ちょっと長く書きすぎました。本書は著者による麻原裁判の異常性についての指摘と、オウムが引き起こした一連の犯罪に対する考察が主なテーマになっています。後者の考察もとてもとても興味深いので、気が向いたらまた感想を書くかも。分厚い本ですが、頑張って読んでみることを最後にお勧めしておきます。